はじめに
朝倉地域の歴史を語るうえで、吉松家と並んで欠かすことのできない一族が「朝倉古賀家」である。鎌倉時代の名門・少弐氏(武藤氏)の末裔とされ、戦国末期に朝倉・須川の地へ移住して以降、地域行政の中核として、また治水事業の立役者として、朝倉の発展に大きく寄与した一族である。
本稿では、古賀家がどのようにして朝倉に根を下ろし、いかに躍進していったのかを概観する。
1. 出自 ― 没落した名門・少弐氏の末裔
古賀家のルーツは、鎌倉時代に大宰少弐を務めた名門少弐氏にある。九州の守護として一時代を築いた少弐氏は、戦国期に没落し、一族は皆殺しの危機に直面することとなる。
その難を逃れるため、一族は飯塚の山中へと身を隠した。そして、自らの素性を明かさぬよう「少弐」の名を捨て、新たに「古賀」と名乗ったとされる。
この「古賀」という姓は、移住前の居住地である御笠郡の唐古賀(現在の太宰府・通古賀)に由来するとされ、『吉松系図』には以下のように記されている。
自御笠郡唐古賀邑興古新云者漂白之砌来テ須川邑住願 (御笠郡の唐古賀から「古新(=古賀新左衛門)」と称する者が、漂泊の末に須川村へ来て住みついた)
2. 須川移住 ― 吉松家を頼って朝倉へ
天文年間(1554年頃と推定)、古賀新左衛門重儀(しげよし)は、漂泊の末に朝倉郷の須川村へとたどり着いた。
彼が頼ったのは、当時、朝倉郷の総大宮司兼朝倉郷長を務めていた民部・吉松種家であった。
なぜ古賀家が吉松家を頼ったのか。その背景には複数の要因が考えられる。
(1) 同祖伝承
古賀家と吉松家は、いずれも中臣氏を祖とする一族であった。両家には強い同族意識が存在していた。
(2) 宮野神社への信仰
吉松家が大宮司を務める宮野神社は、共通の祖である中臣鎌足の創建と伝わる。御祭神の天児屋根命は両氏の祖神であり、宗教的・精神的な帰依先が一致していた。
(3) 吉松家の社会的地位
当時の吉松家は、秋月氏の庇護下にありながら、名目上の「朝倉郷長」として土地配分の権限を有していた。山中から移住先を求める古賀家にとって、最も信頼に足る存在だったのである。
裏切りが常態化した戦国時代において、同祖かつ祖神を共有する吉松家は、古賀家にとって「最後の砦」とも呼べる頼り先だった。
3. 早すぎる登用 ― 移住3年で実務官僚へ
注目すべきは、古賀新左衛門が朝倉に移住してわずか3年後の1557年頃には、すでに「触口(ふれぐち)」「筆役」「散役」といった行政実務職を担っていたことである。
なぜそれほど早く重用されたのか。背景には二つの要因があった。
(1) 古賀家の高い文化資本
当時の教育水準は家格に強く依存していた。没落したとはいえ、名門少弐氏の血を引く古賀家には、
- 識字能力
- 計算能力
- 行政文書の作成スキル
など、当時の一般農民層を大きく上回る教養が備わっていた。
(2) 吉松家側の人材ニーズ
ちょうどこの時期、朝倉では大きな政治的変動が起きていた。
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1554年 | 古賀新左衛門が朝倉に移住 |
| 1557年 | 大友氏の侵攻により秋月氏が朝倉から離脱 |
それまで「式部(神事・祭祀)」を本分としてきた吉松家は、秋月氏が不在となったことで、急遽「民部(行政)」への転換を迫られた。実務に長けた人材は喉から手が出るほど欲しかった。
古賀家の即戦力としての登用は、まさに「組織側のニーズ」と「人材の教養」が完璧に合致した結果であった。
4. 須川での定着と「比良松」の地名由来
朝倉に住み着いた古賀家は、須川の地に拠点を定めた。
伝承によれば、古賀氏が須川に植えた松が平らに成長したことが、現在の地名「比良松(平松)」の由来であるとされる。一族の定着と繁栄を象徴する逸話である。
5. 豊臣政権下での躍進 ― 触口(大庄屋)としての中核化
1587年(天正15年)、豊臣秀吉の九州平定により、朝倉の支配構造は一変する。
それまで朝倉郷の領有権を持っていた吉松家は所領を没収され、新たに小早川隆景による統治が始まった。この大混乱の中、第32代・吉松種良は古賀新左衛門との間で、以下のような役割分担を構築した。
| 一族 | 役割 |
|---|---|
| 吉松家 | 郷代官として広域行政を統括、各村の庄屋として内部統治 |
| 古賀家 | 触口(後の大庄屋)として、農民代表の立場で朝倉の行政を牽引 |
これは、新領主・小早川氏のもとで朝倉地域が安定統治されるための、極めて合理的な補完体制であった。隣国の豊前・肥後で土着勢力の反乱が起きていたなか、朝倉が平穏に新体制へ移行できたのは、この吉松・古賀の連携によるところが大きい。
その後、吉松家からの庄屋職世襲が短期間で途絶えた後、触口の役職は古賀家が継承し、朝倉行政の中核を担う家として確固たる地位を築いた。
6. 江戸中期の偉業 ― 古賀百工と新堀川
江戸中期、古賀家はさらなる飛躍を遂げる。その立役者が、下大庭村の庄屋・古賀百工(義重)である。
当時の朝倉は、目の前に筑後川という豊かな水源があるにもかかわらず、平野部が川面より高い位置にあるため深刻な水不足に悩まされていた。「水はあるのに飲めない」――これが朝倉の地政学的矛盾であった。
百工はこの難題に挑み、既存の水路を拡張・分岐させて広大な台地へ水を送る「新堀川」の開削計画を立案した。
「猿どん」と呼ばれた測量
測量機器のない時代、百工は
- 昼は木によじ登って地形の高低差を目視
- 夜は提灯を持たせた村人を立たせ、その灯りの高さで測量
- 水を張ったタライで水平を測る
など、あらゆる工夫を凝らした。村人から「猿どん」と嘲笑されても意に介さず、緻密な水路設計図を完成させたのである。
この古賀百工の計画を、田中吉松家の種重(現場指揮)・種熙(三連水車の発明)が技術と人事で支えるかたちで、1759年から1789年にかけて、朝倉の農業革命が成し遂げられた。
これは、戦国末期に古賀新左衛門と吉松種良が結んだ「内政と外交の同盟」が、江戸時代に古賀百工と吉松種重・種熙の親子へと受け継がれた、二代にわたる連携の結晶であった。
7. まとめ ― 古賀家がもたらしたもの
朝倉古賀家の歴史を振り返ると、その存在意義は以下の三点に集約される。
(1) 没落エリートの帰農モデル
少弐氏の末裔である古賀家は、戦国の動乱で武家としての地位を失っても、
- 武士としての組織運営ノウハウ
- 「家」としての誇り
- 行政実務に不可欠な識字・計算能力
を保持し続けた。これは、星野氏の朝倉帰農と並び、近世社会への円滑な移行を可能にした「帰農エリート層」の典型例である。
(2) 吉松家との戦略的同盟
吉松家を中核(ハブ)とする在地ネットワークの中で、古賀家は「外交・行政」を担う重要パートナーとして機能した。同祖意識・宗教的紐帯・教養という三つの基盤の上に築かれたこの同盟は、400年以上にわたり朝倉地域の自治を支えた。
(3) 治水・灌漑事業の主導
江戸中期の古賀百工による新堀川計画は、朝倉を干ばつの地から豊穣の地へと変えた歴史的偉業である。これは古賀家が単なる行政官にとどまらず、地域の未来を構想し実現する「ビジョナリー」でもあったことを示している。
結びに
吉松家が「神聖・象徴」を担う家であったとすれば、古賀家は朝倉に「実務・実装」を持ち込んだ家であった。
両家が手を携えて作り上げた朝倉の自治システムと農業基盤は、現代に至るまでこの地域の精神的・物理的支柱として息づいている。
*本稿はESTADIO(エスタディオ)の人文知調査事業による「朝倉吉松家の歴史的変遷と地域における役割」(坂田拓也、2026年2月)に基づき構成されたものである。*

